深淵を覗く者

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5月某日(金曜日)天気:雨

いつもより仕事が長引き少し暗くなった雨の帰り道、駅のホームで最近お気に入りの日本のプログレバンドの音楽を聴きながら電車を待っていた。

コードレスのイヤホン・タイプのヘッドホン。安物だからとびきり音が良いわけではないが、そこそこ聴けるし、コードがないので取り回しが良くて気に入っている。

電車が入ってきた。混んではいないが座席はほぼ埋まってる。どうせ3駅ほどで下りるのでドア横のスペースに陣取り出発を待っていた。

いつもの様に襷に下げたメッセンジャーバックを肩から下ろし、いや、下ろそうとした瞬間、腕が当たったのか左耳のイヤホンが耳から外れた。

電車の床で一回弾み、開いたドアから飛び出し、ホームの床でもう一回弾んだ。
まるでスローモーションの様に見えた。弾んだ時の放物線の軌跡までハッキリと残像のように目に残っている。

間に合う。スローモションの様にゆっくりと描かれた放物線の先に向かって私は手を伸ばした。

しかし、私の動きは目に描かれた残像以上にスローモションだった。

私が手を伸ばそうとするより先に、ホームの床で弾んだイヤホンは歩いてきたおばはんの靴先にあたり、進行方向を180度転換し、見事にホームと電車の間の隙間に吸い込まれていった。おばはん、ナイス・ゴール!!

一瞬、国立競技場のどよめきが聞こえた様な気がした。そして、スローモションの時間が終わった。

気がつくと発車の案内のアナウンスが流れている。

雨に濡れながら電車とホームの隙間を覗き込んでみる。既に夕暮に包まれた時間、そこには暗い闇が横たわるだけであった。

深淵を覗き込む時、深淵もまた私を覗いているのだ。深淵は水溜りの顔をしていた。

電車のドアが閉まった。私は何事もなかった様に振る舞いながら、右耳から流れてくるプログレッシブ・ロックのメロディーを聴いていた。斜め前に立っているおねえさんの哀れみの視線が痛かった。

聴いていたのが中島みゆきでなくて良かった。この状況でみゆきさんを聴いていたら間違いなく泣いていただろう、声も出さずに……。

深淵も今頃プログレッシブ・ロックを聴いて楽しんでくれているだろうか?

左耳だけで……。

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